湘南プロムナード
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鎌倉散策道【建長寺・円応寺・長寿寺・禅居院】
建長寺
(けんちようじ)〈臨済宗(りんざいしゅぅ)、もと鎌倉五山第
一位〉

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 風格と威厳を備えたわが国初の禅宗寺院1253(建長5)年に五代執権北条時頼が創建。開山は蘭渓道隆(らんけいどうりゅぅ)(犬覚禅師)だった。
蘭渓道隆は宋の禅僧で、目指す禅風は他の禅宗と違い純粋で厳格なものだった。
 その厳しい坐禅修行を行うための禅道場として造られたのが建長寺だった。当時から建長寺の禅は厳しいことで知られ、例えば掃除ひとつにも細かい規定があった。
 掃除が行き届いている様子を「建長寺の庭を掃いたようだ」と表現することからもその厳しさがよくわかる。
 創建当時は塔頭(たっちゅう)の数49院の犬寺院だったが、幾度かの火災で焼失、江戸時代のころにはかつての偉容は見る影もなかったという。
 その寂れかけた建長寺の再興に力を注いだのが沢庵禅師だった。
 禅師の本尊は普通釈迦仏であることが多いが、建長寺の本尊は地蔵菩薩である。
 これは建長寺の寺域がかつては処刑場だった場所で、罪人を弔うために地蔵菩薩を祀った寺があったといわれ、建長寺も本尊として地蔵菩薩を祀ることになったとされる。
住所 鎌倉市山ノ内8
電話  0467-22-0981
拝観料 有料
拝観時間  8時30分〜16時30分
アクセス  JR北鎌倉駅から徒歩15分
建長寺・寺史 : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派   臨済宗建長寺派
山号寺号  巨福山建長興国禅寺
創建   1253(建長5年)
開山  蘭渓道隆(大覚禅師)
開基    北条時頼
本尊 地蔵菩薩
寺宝
 木造北条時頼坐像(国重文)は鎌倉時代の公家の略服である狩衣、指貫に身を包んだ彫刻。蘭渓道隆像(絵画)や大覚禅師墨跡は国宝に指定されている。 多くの文化財を蔵しているが、その一部は鎌倉国宝館で展示されることもある。また毎年11月3日前後に行われる「宝物風入れ」の際に一般にも公開される。
 臨済宗大本山、鎌倉五山第一位の建長寺は、巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)という。
山号の由来は寺の前を通る巨福呂坂に、寺名は創建年である1253(建長5年)の年号からとられた。地獄谷とよばれた刑場の跡地に建てられた寺でもある。
 今から約750年前、鎌倉幕府五代執権の北条時頼は蘭渓道隆(らんけいどうりゅぅ)(大覚禅師。1213〜1278)を開山に迎え、日本最初の禅寺・建長寺を建立した。開山の蘭渓道隆は、1246(寛元4)年は33歳で宋から来日した。九州、京都を経て、鎌倉入りした宋僧である。 しばらく常楽寺に住したのち、建長寺開山に迎えられた。その禅風は、これまでの日本の他宗との兼修的な禅とは異なり、純粋で厳格な宋朝禅であったという。宋の高僧に学んだ蘭渓道隆は彼の厳格な禅風をそのまま建長寺にもちこみ、千人を超えた修行僧を指導した。その折に使われた自筆の指導書は「法語規則」として寺に残っている(国宝)。
 それによると、坐禅は一日9時間に及び、歩行中に声や足音をたてるものには罰則が与えられるなど厳しく細かい規則が定められていた。掃除の行き届いていることを昔「建長寺の庭を竹椿で掃いたよう」といったが、この寺の厳格さを言い当てた表現である。
巨福呂坂に面した総門を入ると楼上に五百羅漢などを安置した三解脱門、略して三門(県重文)があり、その先に本尊地蔵菩薩をまつった仏殿(国重文)、儀式法要を行なう法堂(県重文)、唐門(国重文)が直線上に並んでいる。
 鎌倉時代末期には山門・仏殿・庫裡・僧堂・衆寮(修行僧のための寮舎)その他が回廊によって結ばれ、庫裡と僧堂、浴室と西浄(便所)が左右対称に並び、中国径山万寿寺を模した大陸風の配置になっていた。
これらの伽藍は14、15世紀の地震や大火で失われ、現存する建物は江戸時代に入り、沢庵和尚の進言などによって再建、復興されたものである。創建当時から変わらず残っているのは、仏殿の前に植えられた七本の柏槙のみである。
これは宋の禅寺の庭園様式を今に伝えるもの。蘭渓道隆が宋から持ってきた種を植えたとも伝えられている。
幹回り7メートルもあり、750年に及ぶこの寺の歴史を眺めてきた巨木である。
 山門右手には北条時頼の寄進でできた大きな梵鐘(国宝)があり、蘭渓道隆による銘文が浮彫りにされている。 法堂から左の参道を行くと唐門がある。この門をくぐると方丈があり、その背後には開山犬覚禅師の作といわれる庭園があり、名勝史跡となっている。心字の池にはツツジやショウブ、スイレンなどが彩りを添える。その奥の山の中腹には建長寺の鎮守である半僧坊犬権現がまつられ、毎月17日には祭礼が行われる。
 「五山」とは、禅宗(臨済宗)で最高の寺格をもつ五つの寺で、〈五山・十刹〉と併称されることが多い。
その制度は中国からもたらされ、日本では何度かの変更を経て1386(至徳3)年、足利義満によって、南禅寺を五山の上とした京都五山、鎌倉五山の計11ヵ寺が定められた。〈十刹〉は、五山に次ぐ寺格をもつ10寺のことである。
 本尊は室町時代に再興された丈六の地蔵菩薩坐像で、他に千体地蔵菩薩などを安置する。「丈六」は一丈六尺の略で約4・85メートル(立像)、坐像の場合は半分の八尺(2・42メートル)の像の高さをいう。かつてこの地が刑場であったころ、ここに一寺があったが、建長寺開創のころには地蔵堂だけが残っていたという。
このような因縁によって地蔵菩薩が本尊にされたという。
法堂(1814年)は、住持が人々に法を説く堂の意であるが、他宗では〈講堂〉といわれることが多い。「法」とは、仏教では仏の教え、仏の真理と解してもよいのではなかろうか。堂内には千手観音像が安置され、鎌倉三十三所観音霊場の第二十八番札所の本尊である。
 方丈の庭園は夢窓国師の作と伝える心字池で四季の移りゆきを映しだしている。
 三門右の鐘楼には、建長7(1255)年、開山・道隆による鐘銘が陽刻された国宝の梵鐘がかかる。鐘楼脇を右に見れば、一般公開はされていないが、西来庵・昭堂への杉木立の道がある。凛とした静寂さである。西来庵は道隆の塔所(墓所)で、建長寺の聖域とでもいえるのではなかろうか。
 谷沿いに建つ塔頭の多くは門を閉ざすが、妙高院・竜峰院は、鎌倉三十三所観音霊場の第二十七番・第二十九番札所である。方丈裏の参道を経て石段を登ると、建長寺鎮守の半僧坊がある。
円応寺

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 建長寺の斜め向かい、急な石段を登ると円応寺である別名閻魔堂、十王堂と呼ばれる。人が死後、冥界で出会う十王をまつっている。
 1250(建長2年)の創建とされている。開基、開山とも確実な資料はないが開山は智覚禅師。江戸時代の書誌「新編鎌倉志」によれば、円応寺は「由比が浜人鳥居の東南にある」とされているが、それ以前は長谷周辺にあったと伝えられる。1703(元禄16)年の大地震と津波の被害により、現在の地に移されたという。
住所 鎌倉市山ノ内1543
電話  0467-25-1095
拝観料 有料
拝観時間  9時〜16時(春〜秋)9時〜15時(冬 12月〜2月)
アクセス  JR北鎌倉駅から徒歩15分
円応寺・寺史  : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派  臨済宗建長寺派
山号寺号   新居山円応寺
創建   1250(建長2)
開山   智覚禅師
開基   
本尊 閻魔王
寺宝
 本尊ほか鬼卒立像、人頭杖、十王の各木像が有名。
国重文の木造倶、生神坐像(しょうじんざぞう)、
 本尊の木造閻魔王坐像は、鎌倉時代の仏師・運慶の作といわれ国の重要文化財。
晩年、病気により瀕死の状態となった運慶は閻魔様の前にひき出され、「現世に戻してやるから俺の彫刻をつくって人間に見せてやれ」と言われ、息を吹き返した。運慶が笑いながら彫ったため、像も笑っているように見えるという伝説から、古くから「笑い閻魔」ともいわれ親しまれている。
十王堂ともいわれるように、冥界で死者の罪を裁くという閻魔王・初江王(鎌倉時代)などの十王(他は江戸時代)と、常に人の両肩にあって善悪を記録し、死後に閻魔王に報告するという二神の倶生神(鎌倉時代)、三途の川辺で死者の衣を奪い取るという奪衣婆(室町時代)など、鎌倉を代表する。
 彫像群を安置している(一部、鎌倉国宝館に寄託)。 
十王信仰は中国唐代に道教と習合して起こり、わが国では鎌倉時代以後、地蔵信仰とともに広まった。建長寺本尊が地蔵菩薩であることを考えると、本寺の十王像群との因縁は興味深いものがある。
長寿寺 (ちょうじゅじ) 建長寺塔頭

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 初代鎌倉公方(鎌倉府の長官で、関東を支配)の足利基氏(1340〜1367)が、父尊氏の菩提のため、古先印元(1295〜1374)を開山に迎えて開創したと伝えられる臨済宗の寺である。
創建の時期は未詳であるが、以来、足利氏どのゆかり深い寺院といわれている。
 一般公開はされていないが、垣間見る寺域は谷の自然に溶けこみ、露盤・宝珠を屋頂に載せた仏殿の茅葺き屋根が印象的である。5名以上での予約が必要であるが、本寺の精進料理は名高い。
住所 鎌倉市山ノ内1520
電話  0467-22-2147
拝観時間  拝観できません。境内非公開
アクセス  北鎌倉駅より徒歩10分
長寿寺・寺史  : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】
宗派  臨済宗建長寺派
山号寺号   宝亀山長寿寺
創建   1323(元亨3年)〜1336(延元年)
開山   古先印元
開基    足利基氏
本尊 観音菩薩
寺宝
 本尊木造観音菩薩立像、木造古先印元坐像、木造足利尊氏坐像、尊氏の遺髪を埋めたという変形五輪塔ほか。
 長寿寺の寺域を右にして、谷の風が吹き抜ける切通しが、鎌倉七口(七切通し)の一つ、亀が谷坂の切通しである。かつて化粧坂とともに鎌倉から武蔵方面に通じる重要な出入口であった。両側の険しい崖にはさまれた坂道は、往昔の面影を朝比奈切通しと同様によく残しているといわれる。
 切通しの中ほど右に、崖をえぐって石造の六地蔵が安置され、花の絶えることがない。どのような因縁で、いつごろ造立されたのであろうか。
 坂を下りかけた右側に〈延寿堂地蔵尊道(えんじゆどうじぞうそんどう)〉の石柱が立ち、かたわらの小石窟(しょぅせっくつ)に地蔵菩薩が安置されている。
脇の小径を登ると明るい小台地に墓地があり、中央に大きな地蔵菩薩坐像がまつられている。
かつて建長寺の憎が健康を害したとき療養していたところが〈延寿堂〉と呼ばれていた土いう
が、この小台地がその場所なのであろうか。
坂を下って扇が谷に出ると視界が開けて、空気はやわらいだ暖かさに変わる。
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