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(ずいせんじ)〈臨済宗〉 |
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迫力の岩庭と四季折々の風情が楽しめる花の寺錦屏山瑞泉寺(きんぴょうざんずいせんじ)は、夢窓疎石(むそうそせき)がここを禅院相応の勝地として選び 創建は1327(嘉暦2)年、に建立した寺。
開山の夢窓疎石は臨済宗の禅僧で、鎌倉では浄智寺や円覚寺などにも歴任した。また夢窓国師は作庭にも長じ、京都の苔の寺西芳寺や天竜寺などの名庭を残している。
山号の錦屏山(きんびょうざん)は、紅葉ケ谷を囲む三方の由が秋になると満山に紅葉し、寺の背後に錦の屏風のように広がることから名付けられた。
本寺はまた、古来より花の名所としても知られ、足利基氏や氏満は観花の会を催したと伝えられる。
足利基氏、満氏、持氏ら鎌倉公方歴代の墓がある。また、文学者と関わりも深く、境内には吉野秀雄の歌碑や大宅壮一評論碑、久保田万太郎の句碑、山崎方代の歌碑などがあり、鎌倉文士のりーダー格だった久米正雄もこの寺に眠る。
「どこも苦地蔵」には、昔、この地蔵をお守りしていた貧しい僧が、貧しさのあまりよその土地に移ろうとしたところ、地蔵が「どこも、どこも(同じ)」と話したという言い伝えがある。 |
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住所 |
鎌倉市二階堂710 |
電話 |
0467-22-1191 |
拝観料 |
有料 |
拝観時間 |
9時〜17時(10〜3月は〜16時30分) |
アクセス |
JR鎌倉駅東口からバス、大塔宮行きバス 大塔宮(終点)下車、徒歩10分 |
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瑞泉寺・寺史 : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】 |
宗派 |
臨済宗円覚寺派 |
山号寺号 |
錦屏山瑞泉寺 |
創建 |
1327(嘉暦2年) |
開山 |
夢窓疎石 |
開基 |
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本尊 |
釈迦牟尼仏 |
寺宝 |
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木造千手観音坐像(市文)ほか開山堂の木造夢窓国師坐像(国重文)は南北朝時代の頂相彫刻の秀作。木造地蔵菩薩立像(どこも苦地蔵)は鎌倉時代後期の作。絵画では室町時代の竹斎読書図、近世初期に描かれた西湖図六曲屏風など。 |
二階堂道蘊(にかいどうどううん)を開基、夢窓疎石(むそうそせき)を開山にして、1327(嘉暦2)年に〈瑞泉院〉として創建されたが、足利基氏が再興して〈瑞泉寺〉と称されるようになった。二階堂道蘊(貞藤。1267〜1334)は鎌倉末期の武将で、疎石が幼年期を過ごし出家した甲斐国(山梨県)に領地を有し、そのゆかりで疎石が開山に迎えられたのではないかという。
夢窓疎石(夢窓国師。1275〜1351)は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての激動期に、後醍醐天皇や足利尊氏など公武を問わず崇敬された僧で、弟子1万人余といわれる。中国元よ力来朝し建長寺・円覚寺・浄智寺などを歴住した一山一寧に師事し、浄妙寺・浄智寺・建長寺と住持した高峰顕日の法を嗣いだ。疎石もまた南禅寺・浄智寺・円覚寺に住し、天竜寺をはじめ多くの寺院を開いている。
後醍醐天皇や足利尊氏に帰依された夢窓疎石は、瑞泉寺の作庭にも力を注いだ。岩盤を削りだした、作庭にもすぐれ、京都の西芳寺(苔寺)・天竜寺など多くの名庭を残している。本寺の本堂背後の庭も疎石の作で、1969〜1970年の発掘で当初の全容があらわれ、自然の地形をみごとに生かした作庭技法をまのあたりにできる。
岩庭とも称すべき庭は、本堂裏に発掘復元され国の名勝に指定されている。この庭は書院庭園の起源となった。
足利基氏(1340〜1367)は尊氏の第四子で、初代鎌倉公方として関東を支配した。疎石に深く帰依し、遺骸は瑞泉寺に葬られ、以後、鎌倉公方のか彫かの一つとして発展した。
本堂には徳川光圀が寄進した木造千手観音像のほか、釈迦牟尼像、夢窓疎石像がまつられている。地蔵堂には「どこも苦地蔵」と呼ばれる地蔵像が安置されている。現在は、この境域に入ることはできない。
境内は、早春のウメにはじまり、オウバイ(市天然記念物)、枝垂れ桜、夏にはフヨウ、キキョウ、秋には紅葉、冬はスイセンと四季の花が咲く「花の寺」としても知られる。
寺の裏山には「お塔やぐら」、「瑞泉寺やぐら群」がある。周囲の山と一体となった景観をなす境内は、国の史跡に指定されている。
四季の花が絶えることのない境内には、均整のとれた棟反りをもつ二層屋根の本堂、地蔵堂、開山堂、鐘楼などが建ちならぶ。本堂には本尊の釈迦如来、千手観音などが安置されている。どこもご苦しいのは同じだといって堂守をさとしたという伝えをもつ地蔵菩薩像は、〈どこも苦地蔵〉として親しまれている。
境内背後の山頂には、景勝をもって知られる〈偏界一覧亭〉が疎石によって造られ、多くの禅憎がつどって詩会を催し清遊を楽しんだという。
山門のかたわらに〈吉田松陰留跡碑〉が立てられている。幕末の思想家・教育者であった松陰(1830〜1859)は、1854(安政1)年、ペリーの率いた、米艦に下田で密航を求めて投獄されているが、密航をくわだてたころ、本寺住持は松陰の伯父であった。
鎌倉三十三所観音霊場第六番札所。 |
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(かくおんじ)(真言宗(しんごんしゅう)) |
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薬師堂が谷の最奥、清閑の地に覚園寺はある。本寺にはそれだけではない人を魅きつける不思議なものを感じる。庶民信仰と深くかかわる薬師如来と地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が安置される寺院である。
森厳の寺銭に点在する寺宝の数々。サルスベリが咲く山門薬師堂では貴重な御仏を間近に拝観できる。
建保6(1218)年に2代執権北条義時が建立した大倉薬師堂が前身。1296(永仁4)年に8代執権北条時宗の子である貞時が蒙古襲来の災難回避を祈願して、この薬師堂を寺に改めて覚園寺を建立したという。 |
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住所 |
鎌倉市二階堂421 |
電話 |
0467-22-1195 |
拝観料 |
有料 |
拝観時間 |
10時〜15時の1時間毎に案内
10時、11時、12時(土・日曜、祝日)、13時、14時、15時の1日6回案内(8月および12月21日〜1月7日 荒天時は案内中止) |
アクセス |
JR鎌倉駅東口からバス、大塔宮行き(終点)下車徒歩10分 |
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覚園寺・寺史 : 【鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡】 |
宗派 |
古義真言宗泉涌寺派 |
山号寺号 |
鷲峰山真言院覚園寺 |
創建 |
1296(永仁4年) |
開山 |
智海心慧 |
開基 |
北条貞時 |
本尊 |
薬師如来 |
寺宝 |
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仏像彫刻の多彩さは鎌倉でも有数。本尊の木造薬師如来坐像(国重文)、両脇侍の日光・月光両菩薩像のほか、十二神将立像、阿弥陀如来坐像(鞘阿弥陀)、愛染明王坐像、鉄造不動明王坐像など。地蔵堂には別名黒地蔵の名で親しまれている木造の地蔵菩薩立像(国重文)のほか、信者が寄進した地蔵を安置する。境内奥には、開山智海心慧和尚と二世大燈源智和尚の墓塔である四メートル近い二基の宝篋印塔(国重文)がある。 |
本寺は源実朝の亡きあと、執権政治の基礎を築いた北条義時が1218(建保6)年に建立した大倉薬師堂が前身といわれる。
北条貞時は、異国降伏と朝廷鎮護を祈願して、1296(永仁4)年北条貞時が再度の元寇襲来が発生しないことを祈り寺に改めた。
茅葺きの薬師堂には、1354(文和3年)に修理したときに足利尊氏が書いたという文字が記されているほか、建立にあたって次のような話が伝わっている。
貞時(1271〜1311)は鎌倉幕府の第九代執権で、円覚寺の開基時宗の子である。
智海(?〜1306)は、理智光寺開山の願行房憲静、極楽寺開山の忍性に師事した高僧である。
以後、本寺は明治の初めまで、四宗兼学の道場となった。
1333(元弘3)年には後醍醐天天皇の勅願寺(天皇が特別に帰依する寺)となり、ついにで足利氏の祈願所ともなった。
足利尊氏は1337(建武4)年に火災にあった本寺の復興に力をつくし、1354(文和3)年に完成した仏殿(薬師堂)の天井には、尊氏自筆の棟札(梁牌)が今に残っている。
薬師堂はその後、何度かの大修理を経たが、本尊の薬師如来、日光・月光の両脇侍菩薩、眷属の十二神将などを安置して、室町時代の姿をとどめ、四囲の自然と溶けあうように建っている。
本尊の薬師如来と戌神将(いぬしんしょぅ)(伐折羅大将(ばさらたいしょぅ))は鎌倉時代の造立で、日光・月光の両菩薩と他の十二神将は、室町時代に仏師朝祐とその口試によって造立されたという。いずれも常々たる作風を示して、鎌倉を代表する彫像群を構成している。
大倉薬師堂の創建にも、次のような由来が伝えられている1218(建保6年)、将軍源実朝が鶴岡ハ幡宮に参詣の祈、一行の北条義時の夢枕に戌神将(薬師如来に従う十二神将のひとつ)が現れ、「来年の参拝に加わってはならぬ」と告げた。義時はこれを日ごろ信仰する薬師如来のお告げと受けとめ、大倉に私財を投じて寺を建てた。
翌年の参拝時、お告げを思い心すすまぬまま御剣の役として行列に加わった義時は、門のところで夢と同じ白い大を見てにわかに気分が悪くなり、剣を人に譲って邸に帰った。すると神事の後、将軍実朝は公暁に殺され、代わって御剣の役をつとめた者も斬られてしまった。それを知った義時が薬師堂に参詣すると、参拝の日の夜、戌神将の像は見当たらなかった。義時の信仰はいっそう深まったという。 |
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