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鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡
 
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血風で生まれた鎌倉文化・謀略と血しぶきの鎌倉
源頼朝の開幕から頼朝の死 政子と悲劇の将軍
・頼家と実朝
実朝暗殺 源氏の滅亡
北条一族の執権
・日蓮と忍性の対立
蒙古襲来と北条氏の滅亡
◆ 政子と悲劇の将軍・頼家と実朝

● 頼家の放擲放蕩と梶原景時の死
伊豆国の流人から身を起こして鎌倉幕府の創立者となった頼朝は、日本史上でも珍しい大政治家である。すぐれた武芸の待ち主でありながら平生はほとんどその腕を示すことなく、多くの東国武士たちを御家人として従え、彼らをほとんど思うがままに動かして独裁的な政治をおこなった。しかし、後をついで将軍となった長男の頼家(よりいえ)は、わずか18歳とても頼朝のようにはゆかない。
 この若者に幕府の主権者としての責務は余りに荷が重過ぎる、と誰もが思い危ぶんだ。危ぶまなかったのは、恐らく頼家自身だけだったろう。しかし、母政子は危惧の念を、頼家の権限を縮小することで端的に表現した。即ち訴訟の裁断については頼家の独断専決をやめ、幕府の宿老13人の合議によって裁決することに改めた。このことは果して政子だけの発案であったかどうか、疑わしい。宿老13人の中に、北条時政(ときまさ)、義時(よしとき)父子がいた。
 頼家はもちろん激怒した。玩具を取りあげられた幼児のように。鎌倉殿の嫡男(ちゃくなん)と生まれた自分か、何故父と同じように振舞うことを禁じられ、妨げられるのか、何故に老ぼれどもに邪魔されねばならぬのか。頼家は、この憤懣をどう処理したらよいか、わからなかった。
 結局彼がたどりついたのは、側近(というよりは遊び相手)の小笠原弥太郎、比企三郎、和田三郎、中野五郎、細野四郎の五名以外は自分の前へ来てはならぬ。またこの5名が街でどんな乱暴狼藉を働いても、鎌倉中の者は何びとたりともこれに手出しはならぬ。との触れを出すことだった。まるでだだっ子の所行である。
 これを機に頼家の無軌道ぶりは度を増していく。一例をあげれば、宿老の一人である安達前九郎蓮西の倅、弥九郎景盛の妻に横恋慕して、景盛に三河の賊徒討伐を命じ、その留守の間に女を奪い取り、景盛が帰って米ると、景盛ばかりか安達一族を討ち果たすため軍兵を差し向けたが、政子にその無道をきびしく叱責され、しぶしぶ兵を引上げた事件などが顕著なものであた。
 頼家は政務を放擲して、女色、遊宴、蹴鞠などにのめリ込んでいった。このような彼の生活には何か自暴自棄的な陰影が色濃くひろがっているのを感じる。彼の性癖としてあげられるものは、要するに軽躁で衝動的な行動の一語に尽きる。従って彼に対する世評は、いたって芳ばしくない。「不肖の子」と言い捨てる人が多い。   
 頼家はまた、治承以来頼朝が恩賞として御家人たちに与えた領地をすべて調べ上げ、五百町歩を超えるものは、超過分を没収して無禄の近侍たちに分け与える、という無茶な計画を立てた。大江広元、三善康信らの懸命な阻止でどうやら実行はされなかったが、実績も実力もない彼が、幕府の基盤ともいうべき御家人の所領に手をつけようとしたのは、将軍としての権威を奪還したいというはかない願望の現われであったのだろう。が、すべて逆効果で御家人の心は彼から離れ遠のくばかりだった。
 このようにして頼家は、いまや飾り物としておくのもはばかられる存在に落ちてしまった。だが血気にはやる頼家は、妻の父 比企能員(ひきよしかず)らをうしろだてに独裁政治をしこうとする。幕府内の紛争はいよいよはげしさを加えた。 最初に血まつりにあげられたのが、頼朝の寵臣梶原景時(かじわらかげとき)であった。
 1199(正治元年)10月25日、侍所に出仕した結城朝光(ゆうきともみつ)が、その前夜に頼朝を夢に見たと同僚に語り、つい「忠臣は、二君に仕えず」と、口走ってしまったのである。頼朝から特別に寵愛され、頼朝に対して常に崇敬の念を抱いていた朝光である。その言葉に嘘はなかった。しかし聞きようによっては、言外の意味も生じかねな その2目後、朝光とすれ達った幕府の女官阿波局が、朝光にとっては意外なことをささやいたた。 『忠臣は、二君に仕えず』と、汝、他に語りたり。これ、現将軍頼家君を、そしるにほかならず。 その由、すでに梶原景時、頼家君に讒言(ざんげん)したり。しかれば汝、近日中に断罪せらるべし」 梶原景時が将軍頼家に対して、朝光のことを讒言(ざんげん)したというのである。そして讒言(ざんげん)を信じた頼家が、近々のうちに朝光を処罰するに達いないと、内々に告げ知らせてくれたのである。
 ことは重大であった。思いあぐねた朝光は、親友の三浦義村のもとを訪れて事情を説明し、対策を相談した。しかし若年の義村には打つべき手は思いつかず、西御門の三浦館に和田義盛・安達盛長(あだちもりなが)の二人が招かれた。”三人寄れば文殊の智恵〃である。4人の話し合いによって対策が考えられ、即刻実行に移された。
 同夜のうちに鎌倉在住の御家人らに「明28日巳ノ刻(午前10時)、梶原景時に対して遺恨あるの者は、鶴岡ハ幡宮の下官(しもみや)の廻廊に集結すべし」との廻状がまわされたのである。
 翌朝、下官の廻廊は鎌倉御家人であふれかえった。千葉・三浦・畠山・小山・結城・足立・和田・所・和田・二階堂・葛西・八田・安達・波多野等等総じて66人にも及んだ。比企能員の姿もあった。 
 この日、廻廊に集結した者は、すべて鎌倉御家人だったと思われる。 そして、時刻が来ると、中原仲業(なかはらなかなり)が立って、「梶原景時弾劾状」を読み上げた。 「論者である景時一人を召し使わるるか、または我れら多数の御家人を召し仕わるるか、その裁許を下さるるべし」と、将軍頼家に対する申請状の形をとっていた。昨夜から今朝まで、徹夜で中原仲業が書いた文だった。
 ここに集結した66人は、景時に対してなんらかの意趣のある者ばかりだった。景時弾劾状が読み上げられると、みな手を打って賛同し、進んで署名し花押を捺した。 その後、和田義盛・三浦義村の二人が全員の署名済みの弾劾状を持って、大江広元館を訪れた。
 将軍頼家に披露してくれるよう、願い出たのである。このとき、66人のうち誰一人として、北条時政・義時父子の姿が見えないことに気がつかなかった。また、結城朝光に危険を予告した幕府女官阿波局が、実は北条時政の娘だということも、思い至る者はいなかったらしい。
 弾劾状を受け取った大江広元は、すぐには将軍頼家に提出はしなかった。梶原景時の権勢をはばかっていたものと思われる。しかし数日後、激怒した和田義盛に強く催促されると、広元も腹を決めた。 景時弾劾状を読んだ領家は、やがて景時を召し出した。
 「汝、訴えられたることあり。それにつき、陳弁できるなら、詳しく陳弁すべし」 しかし景時は、一言の弁解もしなかった。何故だかまったく判らない。その直後、景時は一族郎等を引き連れて、鎌倉を退出した。所領のある相模国一ノ宮(寒川神社)に、引き籠ったのである。
 1200(正治2年)正月20日、相模国一ノ宮(寒川神社)引き龍っていた梶原景時が、突然、一族郎等を引きつれて、京都に向かった。
 景時の動きは即刻鎌倉に報じられ、ただちに追手が編成されて、鎌倉を出撃した。しかし追手をかける必要はなかった。駿河国清見ガ関(静岡県清水市興津清見寺町)で待ち伏せしていた吉香一族(きっこういちぞく)が、梶原一族を滅ぼしたのである。
 あえない最期をとげた。かつての独裁者の側近ナンバーワンがまず失脚した点に、以後の幕府政治の進路が示されているといえよう。
 1202年(建仁2年)7月、頼家は正式に征夷大将軍となった。その翌年7月、頼家は危篤におちいると事態は急転する。前月の6月に、伊豆から駿河にかけて催した巻狩のさい、冨士の人穴を探った崇りだという噂が流れた。そして頼家は絶対肋からないと鎌倉中にひろまった。
 時政は政子をして頼家が将軍の座を譲るよう工作をはかった。8月、6歳になる頼家の子一幡(いちまん)は関東28ヵ国の地頭職と総守護職、12歳になっていた頼家の弟・千幡が関西38ヵ国の地頭職ときまった。宿老の合議とは名ばかりで実際は政子と北条時政の談合で決まったともいわれる。いくら重病とはいえ頼家は全然相談に預らなかったのは、幕府の人々にとって彼はもう無に等しかったのだろうか頼家は死生の線上をさまよい続け、そんな事情は知らなかった。

● 比企一族の滅亡と頼家の死
 北条の仕業に相違ない。時政め思い知らせてくれると一幡の母若狭局の父比企能員(ひきよしかず)を呼寄せ、時政討伐を命じた。
(一幡の母・若狭の局は比企能員の娘、千幡(実朝)の乳母は政子の妹・阿波の局である。)外戚として威を張ろうとしていた能員は、もちろん二つ返事で引受けた。しかし、この密談を立聞いた政子は直ちに時政に危険を知らせた。
 比企能員対、北条時政、二大勢力の激突は激しく表面化した。 9月2目、時政は御所様御平癒を祈るため名越の浜御所で供養を行ないたいと能員を誘った。
 浜御所にでかけた能員は、時政の意を受けた仁田四郎忠常にだまし討ちとなった。その頃、北条の軍勢が比企ガ谷の比企館に白刃をきらめかせてなだれ込んでいた。不意を衝かれた比企一族はことごとく斬られ、若狭の局も一幡も痛々しい骸をさらし、北条勢の放った火が、やがて一幡の衣に燃え移っていった。
 この事件の直後、頼家は奇跡的に昏迷から蘇った。若狭の局、一幡、義父・能員ら一族の潰滅を知った頼家は、堀親家を使者として、時政殺害を和田義盛と仁田四郎忠常に命じた。
 和田義盛は堀親家を斬り、頼家の手紙を時政に届けさせた。真相を知りすぎていた忠常は、時政の手兵により殺された。
 9月7日、頼家の弟・千幡(実朝)は従五位下、征夷大将軍に補せられ、名を実朝と賜わり、元服した。この時、時政は将軍後見の役として執権となった。一方、頼家は強制的に落飾され、9月末、かつて叔父・範頼の押しこめられた伊豆修禅寺に幽閉された。あくる年の元久元年7月18日、修善寺温泉・筥の湯(明治年間まで存在した)に湯浴み中、北条の刺客団に襲われ、睾丸を握りつぶされてみじめに死んだ。23歳であった。
 頼家の墓は修善寺温泉の指月ガ丘にある。そこから100メートルばかり離れた丘の小道のかたわらに苔むした小さな五輪塔が十三基、頼家を守って死闘に殉じた従者の墓である。
 実朝が9月7日、征夷大将軍となるについて『猪隈関白記』に「鎌倉幕府から将軍・頼家が9月1日に死んだと知らせてきたので、きょう後鳥羽上皇に奏上した」と記す。時政は比企氏を滅す一日前に、頼家が死んだと朝廷をだまし、三代将軍・実朝をかつぎ上げることに成功したのだ。 比企一族滅亡の地には、日蓮宗の妙本寺がある。
 これが、歴史にて時代をつくった人物征夷大将軍源頼朝の嫡男二代将軍頼家の最期である。人はよく実朝を「悲劇の将軍」と呼ぶが、より悲劇的なの は頼家の方ではないだろうか。父のあとを嗣いだ時から希望も白負心も片端から打壊され、誰からも期待されず、誰からも愛されず、孤独感と失意だけがある中で、彼のみじめさは増すのである。 政子と頼家、この母子像もまた悲劇的な色が濃い。

● 源 実朝(さねとも)将軍の誕生
 三代目の将軍にはまだ12歳の実朝(さねとも)をたて、北条時政と大江広元の二人が政所別当(まんどころ)として幕府の実権を握った。いわば北条時政のクーデターの成功であるが、その背景として若い頼家の強引な政策が、東国武士たちの信頼を失っていたことを見落とすべきではない。実朝は、兄頼家が死んだことにされると、すぐその跡目を嗣ぐことになった。それまでは母政子の館にいたが、この時から時政の名越の邸に移り、問もなく元服して実朝と名乗った。彼は時政の館に2年間とどまった。というより、時政が実朝を手元から離さなかったのである。時政は実朝を手元におくことによって幕府の実権をその手に握り、執権と呼ばれた。政子が実朝を時政にゆだねたのも、すべて計算されたことだったに違いない。幕府の移動は故障なく滑り出していた。
 元服して間もなく実朝の結婚問題が起こった。時政は足利義兼の娘を候補者にあげたが、実朝は京都の女を希望した。時政は義兼の妻が自分の娘なので、孫同志をめあわせたいと希望したが、こればかりは仕様がなかった。結局、京都から坊門前大納言信清の息女で13歳になるのが、御台様と決った。実朝の京風に対する憧憬は、すでにこの頃からだったとすべきだろうか。
 これには政子や実朝の乳母・阿波の局(政子の妹)と、時政の後妻・牧の方の確執があった。北条政子と阿波の局は、彼女たちの妹が嫁いだ足利義兼(あしかがよしかが)の娘を実朝の嫁に考えていた。一方牧の方は堂上方の縁故をたどって、やんごとなき姫君の″東下り″を成功させてしまった。 しかも坊門前大納言信清は、後鳥羽上皇の母方の叔父であり、信清の子・忠清は、牧の方の女婿・平賀朝雅(ひらがともまさ)の娘を妻としていた。牧の方の勢力は俄然、政子を凌ぐほどになった。こうした陽の当たる場所での争いをよそに、ひっそりと育っていた幼い魂があった。一幡と腹違いの頼家の子、5歳になる善哉(ぜんさい)が西御門の三浦一族の庇護を受けていた。のちの公暁(くぎょう)である。そして善哉の乳母は、三浦義村の妻であった。

● 北条時政の謀略
 1203(建仁3年)、兄頼家の跡を嗣立したとき、源実朝は12歳であった。そして翌年10月には、 結婚相手が決まった。京都の公卿、坊門信清の姫である。さっそく鎌倉から、迎えの武士が上洛することになった。
 上洛の途中、迎えの武士のうちの一人、北条政範(まさのり)が重病にかかった。それでも政範は、病を押して上洛した。ようやく京都に到着したものの、政範は没した。16歳であった。
 続けて事件が起こった。迎えの武士らが京都に到着すると、京都守護平賀朝雅館で、酒宴が聞かれた。その席上、迎えの武士の一人畠山六郎重保と平賀朝雅とが、太刀を交える寸前までの口論をしたのである。
 いずれも大きな事件ではなかったが、この報らせが鎌倉に伝わると、大事件の発端となった。執権北条時政の後妻牧の方が、烈火のように怒ったのである。
 急死した北条政範は、牧の方が生んだ唯一の男子であった。京都守護の平賀朝雅は牧の方の女婿であり、そして朝雅と口論した畠山重保は、北条時政の先妻の娘が畠山重忠との間に生んだ子であった。
 政子を凌ぐほどになった。牧の方は、実朝の御台様を迎えに京に上ぼった畠山六郎重保が、平賀朝雅に無礼を働いたと時政に告げた。将軍家御台様お迎えの功労者・平賀朝雅への無礼は、即ち将軍家への異心である。重保討つべしというのだから、女のヒステリーは恐しい。
 牧の方もしたたかな権勢欲に終始した女である。時政の後妻として、政子、義時をしのぐ力を持たねばならぬとの意識が常に彼女の心を噛みつづけていたのだろう。牧の方は自分の娘婿平賀朝稚が、頼朝の猶子であり、武勇のものとして後白河院に目をかけられているのが、政子らの鼻柱をくじくに足る素材として役立つであろうと信じていた。
 北条時政は牧の方の言葉を容れた。驚いたのは四郎義時である。 時政は義時に、畠山一族の抹殺の策謀説いた。畠山は源氏の忠義者で北条のためには鼻持ちならなかった。あっけにとられる義時を見つめて時政は言った。 「お前も43歳だ。ちょうどわしが佐殿を立てて山木を殺った齢だ。わしは北条の繁栄に、源氏を利用した。源氏に忠誠の侍どもも利用した。義仲、義高、義経、行家、広常、範頼、祐経、景時、能員、忠常---ずいぷんとわしの手も血なまぐさくなったわ。それを----。ふっ、ふっ、ふ、尼御台や阿波の局は馬鹿な女よ。足利義兼の娘など実朝の嫁にして見ろ。せっかくしぼんだ源氏の白旗が、またぞろ犬に舞い上がるわ」「そ、それでは前大納言家との御縁組みは母上(牧の方)のお力ではなかったので……」
 結婚後、一年ばかりの1205(元久2年)閏7月、実朝暗殺の陰謀が暴露した。首謀者は時政の後妻牧の方だった。牧の方は女婿で京都守護職である平賀朝稚を将軍に据え、おのれの権勢を張ることを夢みて、実朝の暗殺を計画した。もとより時政も暗黙の了解をしていたのは疑えない。彼らには将軍はもう誰でもよかったのだろう。暗殺の方法については「湯殿にて失ひ奉らん」というのもあり、毒殺、刺殺など諸説があって明らかではない。事が露顕したのは、時政夫妻の行動に不審を抱いた政子が、嗅ぎ出したのだった。 政子は三浦義村の軍兵に、実朝の救出を命じ、実朝を弟・北条義時の邸に移した。

● 畠山重忠の最期
比企一族が滅びた後、武蔵国に一人残っている大豪族が、畠山氏であった。その畠山氏を倒すことは、時政にとっても望むところである。女婿の平賀朝雅は武蔵守(むさしのかみ)に任じられており、朝雅の在京中は、時政が代理であった。朝雅の名を旗印に掲げて、今こそ武蔵国に覇権を打ち立てるべきだ、と時政は思ったであろう。
 ただちに時政は一手を打ち、武蔵国稲毛荘(いなげのしょう)(川崎市中原区)の領主、稲毛重成を鎌倉に招いた。畠山重忠の従兄弟であったが、重忠が時政の先妻の娘と結婚しているのに対し、重成は後妻牧の方の女婿であった。
 時政館に大った稲毛重成が、時政・牧の方夫妻と交した密談は、先妻方の北条義時・時房(ときふさ)兄弟に伝えられた。兄弟は時政館に招かれて、直接、時政から聞かされたのである。 「畠山重忠、幕府に謀叛せんとの陰謀ありと、稲毛重成、申すところなり。なれば先手を打って、 重忠を謀殺すべし。汝ら兄弟、その指揮をとるべし」 兄弟は、心底から驚いた。あの重忠が幕府に謀叛するなど、あり得るはずがない。驚きのうちにも、すぐに二人は反論した。
 暗に牧の方の讒言(ざんげん)ではないかと諷して拒絶すると、二人とも時政館を飛び出した。 とはいえ二人とも、やはり気にはなったらしい。六浦道と二階堂小路との岐れ路の義時館前までくると、そのまま兄義時館に立ち寄ったのである。”兄弟で善後策を協議しよう”と、そんな気も、二人にはあったのかも知れない。
 ところが直後、牧の方の実兄大国時親(おおおかときちか)が、義時館を訪れた。牧の方からの伝言を伝えに来たのであ
る。  「重忠謀叛のこと、すでに明らかなり。よって世のため君のため、時政殿に洩らし申すのところ、 継母たるの故に、我れを諜者と見做さると聞く。これ果して、いかがなるものか」牧の方のすねたような口調には、兄弟二人は抗弁できなかった。 「この上は、御賢慮に従うべし」こう答えるしか、なかった。こうして畠山重忠・重保抹殺のわなが、張りめぐらされることになった。
 1205(元久2年)6月22日は、あくまでも晴れわたっていた。星がまだ瞬いている寅ノ刻(午前4時)頃、鶴岡ハ幡宮の周辺で、突然、人馬の悲鳴が起こった。続いて声高い怒号が、発せられた。 「謀叛人ぞ」「謀叛人は浜ぞ」「由比が浜ぞ」
 由比ガ浜を目ざして若宮大路を馳け抜ける軍勢があった。西御門を進発した三浦義村の手兵である。騒ぎに、南御門の畠山屋敷で物音をききつけた重保は、はね起きるなり、わずかの従士をつれ、由比が浜を目ざした。
 一の鳥居を馳げ抜けた頃、謀叛人騒ぎにしては、あたりの静まり返っているのに気付いた。浜風が吹いていたが、合戦の雄叫びは聞こえない。 重保は汗ばんだ顔で空をふり仰いだ。天の川が美しかった。この時、重保とその従士を囲むように鎧武者が馳け寄ってきた。「謀叛人とは誰そ」と、かたからを奔っていた騎馬武者に、これも馬を奔らせながら重保は尋ねた。返ってきた返事は、「謀叛人とは、貴殿のことよ、重保殿」  「なに!!」 再度聞き返す間はなかった。重保の質問に答えた騎馬武者が、重保の声を目ざして、白刃が乱れ舞った。重保の五体を、太刀、薙刀、長巻きがナマスのように斬りきざんだ。
 従兄弟の稲毛重成の使者が、その事態を知らせてきた。
 重保の父、畠山重忠は所領・武州男衾(ふすま)郡菅屋の館から100余騎の軍勢を率いて鎌倉に向かっていた。 稲毛重成は時政の意をうけ、畠山一族を裏切ったのだ。一方、鎌倉では畠山重保が討たれると、さっそく重忠が弔合戦にやってくると噂が飛んだ。御家人の殺される前後に、きまってどこからとなくきこえてくる例の風の声である。
 重忠謀叛が本決まりとなり、義時をはじめ葛西清重、足利義氏、小山朝政、三浦義村、結城朝光、安達景盛など1000余騎が、武蔵国二俣川で畠山重忠と対陣した。ここで重忠は一子・重保の殺されたのをはじめて知ったのである。
 重忠は幕府の企みを読み取った。一族は畠山荘に引き返し、軍勢を集めて戦うことを重忠にすすめた。重忠はきかなかった。畠山一族は10数倍の鎌倉勢に斬り込んでいった。怯まず、一歩も退かぬ激闘の数時間がすぎた。
ことごとく見事な斬り死であった。後世まで智仁勇兼備の武将と謳われ、亀鑑とされた重忠らしい最後である。時に42歳であった。
 重忠の首を見た鎌倉の御家人たちは、治承以来辛酸を共にし、誰からも敬慕された重忠の変わりざまをなげき、はばかるところなく号泣した。
 居たたまれなくなった稲毛重成は「執権殿の命により、一族のよしみをすて、忠義の道に励んだ」と釈明した。だが時政は「いや、わしは重成から畠山謀叛のことをきいた」と白を切った。牧の方は時政のことばを伝えきくと、「なんということを」と時政を責めたが、時政はぬらりくらりと取り合わない。

● 稲毛重成の斬殺 
 悶々の一夜をすごした三浦義村は「重成、おぼえたかッ」と抜き討ちに稲毛重成を斬殺した。
 畠山重保の墓は鶴岡ハ幡宮一の鳥居から由比ガ浜に面して、すぐ右手にある。モチの老木に囲まれた宝篋印塔で、土地の人から「六郎さま」とあがめられてきた。明徳4年(1393年)の銘がきざんであり、かなり後代の塔だが重要美術品である。
 重成の斬られたことで、牧の方は焦りをもった。一ヶ月後の7月、時政をそそのかして平賀朝雅を将軍にしようと企んだ。朝雅は京の六波羅にいて鎌倉と朝廷の折衝をつとめていたから、そうした事情は知らない。朝椎は牧の方の女婿であると同時に、源氏の一族、大内惟義の弟であり、頼朝の甥に当たる。 それに政務にも精通していた。確かに少年の実朝よりは将軍としてふさわしかった。時政が「うん、うん」といったから牧の方はいよいよその気になった。

● 北条時政 伊豆北条の故地へ放逐 
政子をはじめ、鎌倉田の御家人は、ようやく正面切って時政と牧の方の非難をはしめた。 御家人の先頭に立って、時政の暴挙をののしったのは、四郎義時である。時政は執権の座から引きずりおろされ、頭を丸めて北条館に引退することになった。こうなると牧の方は手も足も出なかった。平賀朝雅については 時政は義時に無言のまま、パチパチさせていた扇子で首をピシャリ叩いて見せた。
 北条時政は牧の方を溺愛のあまり、政子や義時に鎌倉を追われたことになっている。追放の御家人を待ち受けるのは、
きまって追討の暗殺団であった。しかし時政は伊豆の北条館で、68歳から78歳までの10年間、のんびり余生をたのしみ、天寿を全うした。尼将軍・政子まで、まんまといっぱいくわせた義時との密約があったからだ。
 時政の没年は1215年(建保3年)1月、その墓は北条館にほど近い、韮山の願成就院にある。枯淡の風格の、青苔におおわた葺石の下で、いまでも時政は願成就の勝別法をしみじみ味わっていることだろう。

● 平賀朝雅 暗殺 
 義時が父・時政を放逐したことは、御家人の信望を集めることとなった。そして7月22日、二代目の執権となるのである。
 京都・六角東洞院の館で、平賀朝雅が京都在番中の後藤基清に斬られたのは、それから間もなくのことだ。
朝雅は息が絶えるまで、なぜ自分が刃を受けたのかわからなかった。
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