湘南プロムナード
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鎌倉史・源氏から北条氏滅亡の軌跡
 
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◆ 実朝暗殺 源氏の滅亡

● 三代将軍実朝と義時の確執
 実朝は幼い時から、どす黒い権謀の争いを見てきた。骨肉相喰むすさまじい闘いの渦が彼の身辺で轟音を立てて泡立っている。この修羅場の中で生きていくには、どうすればいいか、実朝は身をすくめながら考えつづけたことだろう。
 実朝が常に逃避的であったのは、環境が教えた護身術であったといえよう。ただ彼の逃避が次第に反抗的、自棄的なものに変わっていったものの本質的には常に同じであった。それは彼の頑固な虚無感に裏打ちされていたからだろう。
 実朝もまた兄頼家と同じく不肖の子であった。が、頼家はそれを否定しつづけたし、実朝は肯定していた点が二人の性格の大きな差異であった。実朝は兄の所行を実際に見聞したことはなかったと思われるが、兄のいたましい最期を知るにつけ、その二の舞を踏むまいと心に焼付けていたであろう。しかも、いかに関知しなくても、いつの間にか政治の枠組の中に組み込まれねばならぬ身であることが、自分の宿命だと思い知らされた時、彼は閉じこもることの出来る殼を懸命に探し求めた。
 それはある時は歌道であり、ある時は放埓な遊興であり、蹴鞠であり、その他もろもろの京風な遊びであった。彼はいまわしい政治の世界から除外されることを、自ら求めていたと思われる。
 武人の府の主にあるまじき文弱と、周囲から白眼視されることが、彼には安堵を感じさせたかも知れない。義時から武技を励むように注意された時、実朝はきっとうつろに微笑しただけだったろう。
 彼は閉じこもる殼を替えながら、それに溺れきれないのに悩んだであろう。彼は覚めた目で凝視することが出来るだけに、大きな虚しさの中をうごめいている世界に一層無常感を強めたに相違ない。実朝には歌道に精進し、朝廷に官位昇進を希う以外に望みはなくなった。 それほど義時の執権政治は詩歌の願望どおり着実な踏襲を見せていった。そして実朝の義時に対するぎりぎりの抵抗も、この頃からはじまる。
 1209年(承元3年)5月、実朝は右近衛中将に昇進した。ついで8月には藤原定家(ふじわらていか)から当時の秀歌選を贈られた。いいことばかりはない。11月になると執権・義時から北条氏に従う郎党のうち勲功あるものを侍に準じて取り立てるよう、将軍の命令を出してほしいと強要された。実朝はこばんだ。
 この月、義時は諸国守護の豪族の世襲を排して、幕府の役人として異動させることも考えた。これには残り少なくなった実力者の千葉成胤、三浦義村、小山朝政が反対で実を結ばなかった。そればかりか、義時の専断は、ついに侍所別当・和田義盛との衝突となる。いわゆる1213年(建暦3年)2月に端を発した和田合戦だが、義時の策謀には親爺・時政の手口がそっくりうかがえる。
 実朝は和田義盛を信頼していた。これは離反させなければならない。そのため和田一族を謀叛人に仕立てた。

● 和田一族・自刃滅亡
 信濃の泉親衡衛(いずみちかひら)が頼家の遺児・千手(せんじゅ)を奉じて倒幕をはかり、これに和田義盛の子、義直(よしなお)、義重(よししげ)、胤長(たねなが)が加担しているというのだ。義時はさっそく三人を捕らえ、流罪をきめた。例によって鎌倉中に戦乱が起こると噂がひろまり、御家人たちは武装して集まってきた。
 このとき和田義盛は上総の伊北荘にいたが、急をきいて鎌倉にはいり、実朝に会って一族の赦しを乞うた。義直、義重は許されたが、義時は胤長を繩つきのまま和田一族の面前に引き出し、罪状を読み上げて山城判官行村に身柄を渡した。胤長は3月17日、陸奥国岩瀬に流された。その上、荏柄(天神)前にあった胤長の屋敷も取り上げてしまった。この上地は義盛にとって頼朝から拝領した栄光の象徴である。
 和田一族150騎は追いつめられて起った。5月2日のことだ。三浦義村と弟胤義は義盛と義時打倒の盟約をしながら、挙兵寸前に義盛を裏切った。
2日深夜まで義盛ぱ優勢に戦った。三男・朝比奈三郎義秀は幕府の総門を打ち破って南庭に攻め込み、御所に火を加けた。このため実朝は義時、大江広元に護られて、頼朝の法華堂に避難した。
 しかし150騎は次第に追い立てられ、由比ガ浜まで後退した。2日目に和田一族には武蔵七党のうち横山時兼の援軍や、曽我氏、中村氏も加わったが、北条泰時、時房が若宮大路に、町大路に足利義氏、大蔵は結城朝光が布陣し、兵糧攻めにかかった。5月3日の午後6時、和田一族は自刃した。
曽我氏が反北条派に加わり、戦ったことは、曽我兄弟の仇討ち事件ともからめて興味をひく。時政に操られた悲憤の豪族の意趣返しが、和田一族に援軍を出すことになったと考えられる。
 そしてことのほかの激戦に、大蔵御所から若宮大路、由比ガ浜まで、鎌倉の目貫きの場所が合戦場となったのぱ、これが初めてである。
江ノ電・和田塚駅でおりると、すぐ和田塚がある。明治25年に新道開設のとき、多数の人骨や指輪が出土した。人骨は和田合戦の時のものと推定され、和田一族戦没地の碑がたった。無常堂塚ともいうが、付近に采女塚(うねめづか)の古墳があるところから、和田一族の人骨ではないとする説が強くなった。
 和田一族は滅されたが、幕府転覆の張本人、であるはずの泉親衡は、行方不明となったまま、いまだに不明である。 和田合戦をもっとも冷静に見つめていたのは、のちに三代執権となった北条泰時である。泰時は戦況を実朝に報告するときも、義盛や朝比奈三郎の勇武を賞賛しており、父の義時勢が振わないのは、御家人衆と義時の間がしっくりしていないためだとのべている。
 5月5日、執権・義時は義盛にかわって侍所別当も兼ねた。7日には論功行賞が行なわれ、泰時にも領地が与えらた。
だが泰時は「和田義盛は将軍家に対して弓を引いたのではない。父・義時と私闘したのである。わたしは義時の子なるがゆえに、義盛と戦ったにすぎない。恩賞をうける理由はない」ときっぱり辞退した。
 実朝はいよいよ政治から顔をそむけていった。1216年(建保4年)6月、実朝は権中納言となり、7月には左近衛中将にすすんだ。実朝はさらに大将を望んだが、義時は広元を通じて、実朝が朝廷に官位ねだりをするなど進言した。
 実朝の答えはふるっている。[源氏の嫡流はわたしで絶える。だからせいぜい官位でも高めて後世に家名を残すのだ]
 広元は一言もなく退出した。 その11月、実朝は宋に渡ろうと考え、たまたま鎌倉にきていた宋人・陳和卿(ちんなけい)に大船建造を命じた。
 陳は東大寺大仏の修造に従事した技術家であり、鎌倉彫りを伝えた人とも伝えられる。 あくる年の建保5年1月に実朝は権大納言、3月には左近衛大将となった。そして4月に待望の渡米用の大船が完成した。だが由比ガ浜が浅いため、進水させたとたんに船は横倒しとなった。実朝の″日本脱出″は実現しなかった。
 義時が薬師堂建立を思い立ったのが建保6年の7月。12月20目、実朝にとって待望の右大臣任官のしらせが鎌倉に届いた。この間、従二位に昇進した尼将軍・政子は熊野詣でに事よせ、京都で朝廷の実力者・藤原兼子と会い、実朝の跡継ぎに後鳥羽上皇の皇子を、鎌倉に下すよう密約をかわしている。

● 実朝暗殺 源氏の滅亡
三つのできごとは、ばらばらのようだが、ことごとく実朝の死とつながっていた。
 1219年(建保7年=4月12日に承久と改元)1月27日、28歳の実朝は右大臣拝賀の式を行なうため、大蔵御所から鶴岡八幡宮に向かった。
 三浦義村の庇護のもとに育った頼家の子・善哉(ぜんさい)は、このとき19歳となり、八幡宮別当・公暁(くぎょう)と名乗っていた。公暁が別当となったのは、建保5年6月20日である。翌年の建保6年9月14目、幕府は奇妙なことをやった。流鏑馬の馬場付近に頼朝の設けた八幡宮の警固所を取り払ってしまったのである。30年にわたり四六時中、宿直の武士がつめていた八幡宮は無防備状態となった。
 実朝の行列は午後6時に御所を出発した。大江広元は実朝の晴れ姿を見て、はらはらと落涙し 「不吉な予感がする。束帯の下に腹巻(鎧の一種)を着用なさい」と進言した。実朝は実朝で、宮内兵衛尉公氏に髪の毛を一筋抜いて「形見だ」と与えている。
 御所の梅の木は雪をかぶっていた。前々日の25日に降った雪と、拝賀の日の夕から降り出した雪が、あたたかい鎌倉に60センチも積っていた。いまの3月なかぱである。梅の花はとうに散ったあとの大雪であった。実朝は一首詠んだ。「出ていなぱ主なき宿となりぬとも 軒端の梅よ春をわするな」死を予期していたとしか思えない。広元も変事を感ずいていたようだ。
 一方、義時は八幡宮の楼門をくぐったとき、目前を白犬が遮るのを見て、目まいを覚えた。そこで奉侍していた宝剣を
中原仲章に渡し、さっさと小町の屋敷に戻ってしまった。
惨劇は神拝の式を終わった実朝が、退出して石段をおりようとしたときに起こった。
 躍り出た頼家の遺子、公暁は「親の仇」と喚いて実朝を討ち、返す刀で、宝剣を奉持していた中原仲章も殺した。行列を警備した武士は、1000余騎であったにもかかわらず、武田信光らが馳けつけたとき、公暁はすでに実朝の首を斬り取って、逃走していた。 ハ幡宮警備の士がいたら、これほど不手際にはならなかったろう。 公暁は雪ノ下北谷の坊にいる後見の備中阿闍梨(びちゅうあじゃり)のところへ逃げ込み、飯を所望した。食事をする間も実朝の首を離さなかったという。
 飯を食いながら公暁は三浦義村のもとに使者を出すよう命じた。『吾妻鏡』によれば「今将軍の闕あり、吾は東国の長
に当たる、早く計議をめぐらすべし」といったことになっている。 公暁は、義時と中原仲章が式の途中ですり替った事情を知らなかった。だから義時も殺したと思っている。
 三浦義村は公暁の保護者でもあり、義時なき後の実力者であった。義村を頼ったのは当然である。 一方、仮病で自宅に戻った義時は事件の起きるのを待っていた。三浦義村は公暁に「とにかく迎えを出すからわたしのところにおいで下さい」といいながらこれを義時に知らせている。義時は三浦の使者に即刻、公暁を斬れと命じた。
 三浦義村からの迎えがいっこうにこないので、公暁は鶴岡の後方の蜂から西御門の三浦屋敷にはいろうとした。
その途中、義村の差し向けた長尾定景ら5人の討手に斬りつけられた。公暁は北条方の武士と思い、刃をかわしながら義村の屋敷にたどり着いた。叩けど喚けど門は開かず、屋敷内は息をこらしたように静寂を保っている。
 定景の一刀が公暁の肩を深々と斬り下げた。「ぐわアー」その断末魔の声を屋敷内の義村は合掌してきいた。
 
 
● 源氏の嫡流は、ここに滅びた。
執権・義時は2月8日、薬師堂に参拝して命拾いのお礼をのべた。『吾妻鏡』には惨劇のあった正月27日に、十二神将中の伐折羅将軍像が、堂内から姿を消していたと、あらたかな霊験を記している。泰時はそのころ侍所別当となっていたが、正義派の彼はこの陰謀を知るよしもなかった。
 義時は冷徹な政治家として、鎌倉幕府を左右した。将軍を補佐する執権職として。 政子は幕府の権威が永続する代償として殺された二人の子を偲んで、時には涙した。
 大蔵薬師堂が覚園寺となったのはこ1296年(永仁4年)、開基は九代執権・貞時、開山は智海心慧(ちかいしんえ)である。義時が剱難をのがれたゲンをかついで、元寇の国難をさけられたお礼に貞時が造営したのだ。いまは二階堂の地名となっているが、当時は御所から大江広元の屋敷のあった十二所あたりまで大蔵といった。

 殼の中にこもることにもあきた時、思いついたのが、例の渡宋船だったろう。折よく現われた陳和卿は実朝には格好な慰みだった。遠い海路を異国へ渡る夢がいかに子供っぽいか彼自身よく知っていたろうが、もしかしたら、この汚濁の国から逃げられるという魅力は彼を酔わせた。義時は苦笑しながら、浮かばぬように船を作ることを陳和卿に命じた。船が完成した時、実朝は、やはり遁れられぬ運だと、叔父義時の老獪さを眉ひそめながら微笑しただろう。
 渡宋の夢が消えてから、実朝はしきりに官位昇進を奏請しはしめた。大江広元が諌止しようとしたが、実朝は自分には子がないから源家はこれで絶える。だから高い官位を得て家名を飾るのだ、といって聞き入れなかった。官位は彼が求めるままに昇進した。左近衛大将、内大臣、右大臣と目まぐるしい程の昇進であった。
 実朝が広元に「源氏の正統此時に縮まり畢んぬ」といったのは非常に印象的だし、不可思議でもある。ただし広元は義時の使いとして来たのだったから、当然義時に伝えられることを知っての言葉である。
人はよく実朝を「悲劇の将軍」と呼ぶが、しかし より悲劇的なのは頼家の方ではないだろうか。父のあとを嗣いだ時から希望も白負心も片端から打壊され、誰からも期待されず、誰からも愛されず、孤独感と失意だけがある中で、彼のみじめさは増すのである。 政子と頼家、実朝、この母子像は、時代の執権の大きな犠牲となりた悲劇的な末路となった。

● 名執権は三代・泰時
1219年(建保7年)1月、実朝と公暁の死によって源氏が滅びると、1333年(元弘3年)まで、114年間にわたって北条氏の執権政治がつづいた。
 鎌倉時代の全盛は、この間に見られる。『海道紀』の著者(氏名不詳)は1223年(貞応2年)に京都から鎌倉に着いたときのもようをつぎのように記している。   
 「申(さる)の斜(ななめ)((午後6時近く)に、湯井(由比)の浜に落着ぬ、しばらく休みて此所をみれば数百艘の舟ども綱をくさりて大津の浦に似たり。千万宇の宅軒を並べて大淀のわたり異ならず」 鎌倉の繁昌ぷりがうかがえる。また『吾妻鏡』によれば、1252(建長4年)に鎌倉では飢餓(大火と大暴風雨に見舞われている)のため、酒の売買が禁じられた。このとき民家の酒壷を役人が調べた。当時の鎌倉の人口は、僧侶、武士、町人の総人口が15〜6万以下ということはなかったろう。 そうした全盛期を迎えながら、蒙古の侵略に対する国防の疲弊をきっかけに、北条一門はやがて落日の影を濃くしていった。

● 蒙古の侵略に対する国防の疲弊
永久の乱の前後から滅亡まで、北条氏の足跡を追って見よう。 まず実朝の死が京都に伝わると、後鳥羽上皇は息子二人のうち、1人を将軍として鎌倉に下向させようとした北条政子の工作を粉砕した。鎌倉方はしかたなく当時2歳の藤原頼経(ふじわらよりつね)を将軍に迎えた。頼経は、頼朝(よりとも)の妹が一粂能保(いちじょうよしやす)に嫁いで生んだ娘が、西園寺公経(さいおんじきんつね)に嫁ぎ、そこで生まれた娘が、藤原道家と結婚して生まれた子である。
 鎌倉幕府内紛のため弱体化-----こう読んだ後鳥羽上皇は1221年(承久3年)、隠密裏に延暦寺、東寺、仁和寺の僧
に命じ、北条義時調伏の祈祷をさせた。 そして5月14日、流鏑馬汰と称して畿内近国の武士団、僧兵を召集。翌15日には政所執事として京都守護の任にあった義時の義兄弟、伊賀光季(いがみつすえ)を斬殺。ついで義時追討の院宣・宣旨を諸国守護、地頭に発した。 まことに無茶なやり方で、『神皇正統記』を著した北畠親房でさえも「義時久しくかれが権をとりて、人望にそむかざりしかぱ、下にはいまだきずありといふべからず。一往のいはれぽかりにて追討せられんは、上め御とがとや申べき」と上皇の不当を責めている。
 5月19月の正午ごろ、さらに午後2時の2回にわたり上皇の暴挙を伝える飛脚が鎌倉に到着した。その夜、義時邸で会議が持たれた。朝敵の汚名をきたことを、どうそそげばよいか。北条時房、泰時、三浦義村、安達景盛は足柄・箱根の関を守ることを主張した。だだ犬江広元だけは京都へ進軍すべきだといった。
 それで武蔵の軍勢が鎌倉に勢揃いするのを待って進発することになった。21日になっても兵は集まらない。広元は「こんなことをしていたら東国武士までも、朝廷方についてしまうであろう。雲は竜に従う。一騎でもよい。いま直ちに鎌倉を発すべきだ」と申し立てた。
 その夜、泰時はその子、時氏(ときうじ)などわずか18騎で出発した。「雲は竜につく」----後年、桶狭間の合戦で尾張の織田信長は、この広元の献言した一騎馳けの戦法を使い、駿河の猛将・今川義元を見事にたおしている。
 泰時は一且出発したが、途中から馳け戻り、「上皇が鳳輦(ほうれん)に乗って軍を指揮された場合はどうしたらよいか」とたずねた。義時は「上皇に弓を引くことはできない。そのときは兜を脱ぎ弓弦(ゆんずる)を切って、お前の身を上皇のご判断にまかせよ。ただし上皇は都におられて、追討軍だけが向かってきたなら、最後の一人まで見事に斬り死をとげよ」といった。 
 6月17日、勝ち戦となった幕府は、六波羅(ろくはら)で戦功調査。7月にはいって後鳥羽上皇を隠岐に、順徳上皇を佐渡に流し、8月には土御門上皇(つちみかど)を土佐に流したほか、上皇にくみした公卿や武士の処分を終わった。このとき時房、泰時を京都にとどめ、御所や西国の御家人を監視させたのが、六波羅探題(ろくはらたんだい)のはじまりである。
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